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行信ということば [『教行信証』精読2(その76)]

(7)行信ということば

 この文のなかに行信ということばが二度出てきます、「真実の行信をうれば」と「この行信に帰入すれば」と。言うまでもなく念仏が行で信心が信であり、ふたつつなげて行信としているのですが、これをしかし「行と信」というように理解すべきではありません。行は信であり、信は行であると理解すべきです。このことについては『末燈鈔』に親鸞の丁寧な解説がありますので、読んでおきましょう。「さては仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。…これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり」(覚信房宛て第11通)。
 行も信も「弥陀の御ちかひ」であるというのですが、いささか謎めいて聞こえます。普通の理解では、「弥陀の御ちかひ」を信じるのが信で、その上で名号を称えるのが行となりますが、信も行も「弥陀の御ちかひ」だからひとつであると言うのです。さてしかしここまで読んできましたわれらとしてはこの一見謎めいたことばも素直に頷くことができます。そのあたりの消息を振り返っておきますと、信も行も「弥陀の御ちかひ」に何ひとつつけ加えるものではなく、むこうからやってきた「よきたより」を聞かせていただき(信)、それにこだまする(行)だけということです。
 宇宙のかなたからやってきたかすかな信号(たより)がこころに届く、これが信です(信は「信じる」ことであるとともに「たより」でもあるというおもしろいことばです)。信号が届いて、それを信じるのではありません、届いたことが取りも直さず信じることです。信号を傍受すること、これが信ですから、信は信号に何ひとつつけ加えるわけではありません。そしてその喜びがおのずから口をついて出る、これが行です。信号が届いて、それにこちらから返事をするのではありません、届いた信号にこだまするだけです。「ヤッホー」という声に「ヤッホー」と反射するだけですから、行もまた信号に何ひとつつけ加えるわけではありません。
 かくして「行と信とは御ちかいを申すなり」ということになります。

タグ:親鸞を読む
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