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ただ五逆と誹謗正法を除く [『教行信証』「信巻」を読む(その25)]

(5)ただ五逆と誹謗正法を除く


 さあ残ったのが「ただ五逆と誹謗正法を除く」という文言で、『如来会』にも同じ趣旨の但し書きがついていますが、これは一体何かという疑問が起こらざるを得ません。ここまで見てきましたように、「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれざれば、正覚をとらじ」とは、「十方の衆生よ、至心信楽し欲生我国し乃至十念せよ、そうすれば往生させよう」ということではなく、「十方の衆生を至心信楽し欲生我国し乃至十念する身に育てよう、そして往生させよう」という意味でした。としますと「ただ五逆と誹謗正法を除く」という例外規定はどういうことだろうと疑問に思わざるを得ません。


これを考えるとき手がかりとなりますのが「造悪無碍」(あるいは「本願ぼこり」)という言動です。これは、本願は悪人のためにあるのだから悪をなすことは往生の障りにならないという考えで、法然在世の頃から大きな問題となっていました。興福寺や延暦寺から専修念仏停止の訴えが出されたとき、法然は「七箇条の制誡」を出し門弟たちに署名を求めていますが、そのなかに「真言・止観(天台)を破し、阿弥陀仏以外の仏・菩薩を謗ること」とともに「専ら婬酒食肉を勧め、持律持戒の人を雑業の人と見下すこと」などが入っています。悪人のために本願があるからといって、どんな悪をなしても差し支えないということではないと「造悪無碍」を厳しく戒めているのです。


親鸞もまた関東の弟子たちに宛てた手紙のなかで、本願という素晴らしい薬があるからといって、あえて毒を好むなどということがあってはならないと、薬と毒の巧みな譬えによってこれまた「造悪無碍」を手厳しく否定しています。さあしかしことはかなり微妙と言わなければなりません。どんな悪人も本願の救いから漏れることはないとしますと(『歎異抄』第1章には「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」とあります)、どんな悪をしてもいいではないかとなるのは自然な流れだからです。これをどのように考えればいいでしょう。


 



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