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『一念多念文意』を読む(その60) ブログトップ

眼差し [『一念多念文意』を読む(その60)]

(3)眼差し

 先回(第4回)は不思議な「たより」について考えました。その「たより」が届くことが、それだけで救いであるということでした。「たより」は普通「こえ」(名号)として届きますが、それは「ひかり」(光明)としても届くということ、今回はそのことについて考えてみたいと思います。「たより」が届くということは、その人のことが気遣われているということ、眼差しが向けられていることに他なりません。
 もうだいぶ前になりますが、テレビで「無縁社会」というドキュメンタリー番組がありました(のちに本にもなり注目されたようです)。そこに登場した一人住まいの男性の元旦の姿が衝撃的でした。ひょっとしたら誰かから年賀状が届いているかもしれないと集合住宅の郵便受けを見にいくのですが、開けてみると空っぽ。その男性の照れ笑いには深い悲しみが湛えられていました。
 誰からも自分の存在に眼差しが注がれていない悲しみ。
 このように誰かの眼差しが向けられていることが生きる力となるのですが、しかし、その一方で、ひとの目というものは窮屈なものであるとも言えます。とりわけ田舎では周りの人々の目がまとわりついてかなわない。そんな閉鎖空間から飛び出して都会で自由に生きたいと思うものです。
 今の若者たちは親元から離れたがらないそうですが(その方がいろんな点で便利でいいと言います)、ぼくらの若い頃はなるべく親から遠くで生活したいと思ったものです。誰からも見られないということは自由ということです。「見られる」ことは「見守られる」ことであると同時に「見張られる」ことでもあります。ぼくらにはどうしてもひとの目から隠したいことがあります。
 すべてがさらけ出されることは耐え難い。

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