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ひとし [親鸞最晩年の和讃を読む(その28)]

(2)ひとし

 囚われに気づいたときには、もう囚われから抜け出ていると言いました。「あゝ、これが囚われているということか」と思ったときには、もう囚われていません。
 ここに心の囚われの不思議がありますが(身が牢獄に囚われているときは、そうはいきません)、注意しなければならないのは、囚われに気づくことによりそれから抜け出るとは言うものの、囚われがきれいさっぱりなくなるわけではなく、依然としてつづいているということです。「これは“わがもの”に囚われているということか」と気づいたとき、もう「わがもの」への囚われ(我執)から抜け出ていますが、でもそれで「わがもの」への囚われがすっきりなくなるわけではありません。依然として「わがもの」に囚われています。囚われながら「あゝ、これは囚われだ」と気づいているのです。
 「囚われから抜け出ているが、まだ囚われている」、「これは囚われだと気づいていながら、依然として囚われている」。なにか矛盾したことを言っているように思われるかもしれませんが、でもそうとしか言いようがありません。
 「わがもの」への囚われ(我執)からすっきり抜け出ることが無我の悟りであり、それが仏の正覚ですが、「わがもの」への囚われに気づき、それから一応は抜け出ているものの、しかし依然として「わがもの」に囚われているというのは、無我の悟りに近づき、仏の正覚に肉薄していても、まだ悟りを得たとは言えず、仏の正覚に至ったとは言えません。まだ正覚ではないが、しかし正覚に近い、これが「正覚とひとしい」ということ、すなわち等正覚です。和讃で「ふかく信ずるひとはみな、等正覚にいたるゆゑ」と言い、「信楽まことにうるひとは、…等正覚にいたるなり」というのは、信心を得た人は「正覚とひとしい」という微妙な境地にいることを詠っているのです。親鸞は関東の弟子への手紙で、しばしば「信心の人は仏とひとし」と言っていますが、同じことです。
 囚われに気づきながら、依然として囚われているということについてさらに考えつづけたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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