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法蔵の夢 [正信偈と現代(その52)]

(8)法蔵の夢

 「衆水、海に入りて一味なるがごとし」と言っても、それはただこころの中だけのことで、現実は敵だ味方だと憎しみあっているのではないか、と言われるでしょう。涅槃というのはこころの中にしかないのではないか。もっと言えば、ただ「I have a dream」というにすぎないのではないか。誤解を恐れずに言いたいと思います、その通りだ、と。涅槃とはこころの中の夢にすぎません。でも、そんな夢があること自体たいへんなことではないでしょうか。
 キング牧師は「白人は敵だ」とは言いません、黒人と白人が「ジョージアの赤土の丘の上で、同胞として同じテーブルにつく」という夢を語るのです。キング牧師といえども憎悪とは無縁ではないと思います。身近な誰かが白人に殺されたら、憎しみがメラメラ燃え上がるに違いありません。そしてその犯行を絶対に許さないでしょう。でも彼は「白人は敵だ」とは言わない、「同胞として同じテーブルにつきたい」と言います。これはたいへんなことではないでしょうか。
 考えてみますと、本願というのは法蔵菩薩の夢です。一切衆生が浄土において同胞として同じテーブルにつくという夢です。
 そして法蔵菩薩はぼくらの中に生きていて、一切衆生が同胞として同じテーブルにつくという夢をみています。ただぼくらはそのことに気づいていません。意識の奥の奥に隠れているからです。ところがあるときふいにそれに気づかされる、「あゝ、これがぼくらのほんとうの願いだ」と。それがプラサーダ(浄信)のときです。これまで濁っていたこころがさあーと澄み、そこにとうのむかしから法蔵菩薩がいたことに気づくのです。そしてそれが救いです。ただ願いがあるだけじゃないか、ただの夢じゃないか、と言われるかもしれませんが、とうのむかしから願われていたということ、夢みられていたということ、それに気づくことが救いとなるのです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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