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六角堂に百日籠らせたまひて [「親鸞とともに」その49]

(2)六角堂に百日籠らせたまひて

このように人間にもとから備わっている欲求を抑えつけるのですから、そもそも無理があると言わねばならず、おのずと崩れていく宿命にあると言わなければなりません。しかもそのことを大っぴらに認めることはできませんから(それは伝統的な僧伽の崩壊を意味します)、実際は崩れているにもかかわらず、表面上は守られているように繕うという欺瞞がまかり通ることになっていきます。親鸞が入山した頃の比叡山延暦寺もその例外ではなく、山のふもとの坂本には高僧たちの隠れ妻を囲う邸宅が数多くあったと言われています。こうした公然の秘密を親鸞が知らないはずはありませんし、若い親鸞自身、身体のうちにうごめく欲求にせめたてられていたに違いありません。かくして親鸞にとっての一つの大きな転機が訪れることになります。

親鸞自身は自分のプライベートなことについてほとんど何も語ってくれませんが、幸い恵信尼文書という貴重な資料が残っています。親鸞の妻・恵信尼が末娘の覚信尼宛てに出した書簡の束が西本願寺の蔵から見つかったのです。そこには夫・親鸞についての思い出が語られていて、それが若き親鸞を知る重要な手がかりとなります。その第1通にこうあります、「山を出でて、六角堂に百日籠らせたまひて、後世(ごせ)をいのらせたまひけるに、九十五日のあか月(暁)、聖徳太子の文を結びて(おことばを述べられ)、示現にあづからせたまひて候ひければ(お姿を現されましたので)、やがてそのあか月出でさせたまひて、後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと、たづねまゐらせて、法然上人にあひまゐらせて、云々」と。

親鸞が法然にあうのは建仁元年(1201年、親鸞29歳)であることは、親鸞が『教行信証』の後序に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と書いていることから確かですが、そのように「後世のたすからんずる縁にあひまゐらせんと」法然上人を訪ねるに至った因縁として、六角堂に百日参籠したことがあるのが分かります。そしてその九十五日のあかつきに聖徳太子の示現にあづかったというのですが、その辺りの細かい経緯はこの文面だけでは読み取ることができません。そこでもう一つの資料、時代は少し下りますが、親鸞の曾孫・覚如が著した親鸞の伝記、『親鸞伝絵』を参照しましょう。


タグ:親鸞を読む
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