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利他教化 [『歎異抄』ふたたび(その45)]

(2)利他教化

 状況が変わることによって得られるのが「安心(あんしん)」で(病気が治ることによる「あんしん」)、状況の如何によらないのが「安心(あんじん)」ですが(病気であろうがなかろうが「あんじん」)、後者の「安心(あんじん)」をもたらすことこそ仏教の慈悲と考えるべきです。としますと仏教の慈悲とは何をおいても「利他教化」であると言わなければなりません。「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」と言い「衆生を利益する」と言うのは、仏法に目を開いてもらうようにすることに他なりません。親鸞が『教行信証』「証巻」に「還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり」と言っているのはそのことでしょう。そのことを念頭にもういちど第4章の文を読みますと、これまでとは少し違った景色が見えてこないでしょうか。
 「還相の回向」ということばが出てきましたが、これは親鸞浄土教のキーワードの一つですので、ここできちっと押さえておきましょう。『教行信証』は「教巻」からはじまりますが、その冒頭にこうあります、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と。往相・還相ということばは曇鸞に由来しますが、往相とは「穢土から浄土へ往く相(すがた)」で、還相とは「浄土から穢土に還ってくる相」という意味です。浄土へ往くというのは、みずからが往生すること(救われること)で、穢土に還るというのは、他の人たちを往生させること(救うこと)ですから、前者はみずからの利益を求めること、すなわち自利で、後者は他の人たちの利益を求めること、すなわち利他と言えます。いま話題となっている慈悲は利他であり、したがって還相ということになります。
 さて問題は往相と還相の関係ですが、こうしたことばがもたらす印象からして、まず往相があり、しかる後に還相があるものと思います。まず往き、そして還る、と。自利と利他ということばも、まず自利、そして利他、と考えるのが普通でしょう。まず自分が救われ、その上で他の人たちを救うことができる、とするのが自然だと思われます。しかしほんとうにそうかと問うのが親鸞です。

タグ:親鸞を読む
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