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弥陀の本願信ずべし [親鸞の和讃に親しむ(その81)]

第9回 正像末和讃(1)

(1)弥陀の本願信ずべし(夢告讃)

弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり(第1首)

弥陀の本願信ずべし。本願に遇うひとはみな、摂取不捨の利益えて、仏となるにさだまりぬ

『正像末和讃』冒頭の一首ですが、これには前書きがあり、「康元二歳(1257年、親鸞85歳)丁巳(ひのとみ)二月九日夜寅時(とらのとき、午前4時ごろ)夢に告げていはく」とあります。としますと、この和讃は一見、親鸞が「弥陀の本願信ずべし」と弟子たちに向かって語っていることばのように思えますが、実は親鸞は夢のお告げとして「弥陀の本願信ずべし」ということばを聞いたということです。親鸞は発信者ではなく受信者であるということですが、このことはわれらに大事な示唆を与えてくれます。つまり、このことはこの和讃だけのことではなく、一般に親鸞が残してくれたことばに言えることではないかと思われてくるのです。たとえば『歎異抄』第1章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」は、紛れもなく親鸞自身が発したことばとして記録されているのですが、しかし実は親鸞はこのことばを受信しているのではないかということです。

われらは、われら自身が何か新しいことを発信することに意味があると思います。これまで誰も言わなかったことを新たに発信することに価値があり、もうすでに言われていることをくり返しても何の意味もないと判断されます。これは学問の世界においてはもう当たり前のことで、ある説が発表されたとき、それの真理性はもちろんですが、それとともにその新規性が問題となります。それはすでに誰かが発表しているのではないかが検証され、もしそうであることが判明しますと、見向きもされません。どうしてそうなるかと言いますと、学問の真理はわれらがそれを「ゲットする」ものであるからです。そしてわれらが「ゲットする」真理は、誰がそれを最初にゲットしたかが決定的な意味をもってきます。誰かがはじめてゲットしてしまえば、それ以後は誰でもゲットできると判断されるからです。さてしかし仏法はわれらがそれを「ゲットする」ものではありません、われらはそれに「ゲットされる」のです。親鸞は「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」という真理をゲットしたのではありません、それにゲットされたのです。


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