SSブログ
「『証巻』を読む」その13 ブログトップ

願生と往生 [「『証巻』を読む」その13]

(2)願生と往生

どうして親鸞はこの読みをしたのかといいますと、普通の読みですと、「剋念して生ぜんと願ずれば」と「往生を得て」の間に「また」が入りますが、それを避けたのではないかと思われます。十八願成就文では「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て」であり、願生と往生が「すなはち」でつながっています。この「即」について親鸞は「即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)と解説していますが、それが「また」となりますと、願生と往生が「ときをへ、日をへだてる」ことになります。こうして十八願成就文のもっとも大事なメッセージが損なわれることを怖れたのではないでしょうか。そこで、無理は承知で、「また」を「剋念して生ぜんと願ぜんもの」と「往生を得るもの」をつなぐことばとし、その両者が「すなはち正定聚に入る」と読んだと推測できます。

さてしかし願生と往生が「すなはち」であるというのは、驚くべきことと言わなければなりません。往生を願ったそのときに往生するとはどういうことでしょう。

どんなときに往生を願うのかを考えてみなければなりません。十八願成就文では「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」とありました(曇鸞のことばでは「もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して」)。何か不思議な声(『浄土論』の梵声です)が聞こえてきて、それが心に沁みとおるということです。この声は耳に聞こえる普通の音声ではありません、心に直に届く不思議な声です。前回の最後のところで、プラトンを引き合いに出し、すっかり忘れていたこと、忘れていること自体を忘れていたことをふと思い出すと言いましたが、そのとき実は不思議な声がしているのです、「何か大事なことを忘れてはいないか」と。その声にわれらはハッとし、原風景としての仏国土を思い出す。そのときです、往生したいと願うのは。

これは何を意味するかといいますと、願生の心が「われらに」起っているには違いありませんが、それを「われらが」起こしているのではないということです。原風景としての仏国土を思い出させてくれる不思議な声(これは如来の声に他なりません)がわれらに願生の心を起こしているのです。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『証巻』を読む」その13 ブログトップ