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唯物論 [「信巻を読む(2)」その95]

(13)唯物論

アジタは唯物論で知られています。世界は地・水・火・風の四大とそれらが存在する場としての虚空とからなり、それらの要素が常に離合集散しているとし、人間もまたその四つの要素の集合体に他ならないと考えます。ですから人間が死ぬと、それを構成していたそれぞれの要素が、地はもとの地の集合に、水はもとの水の集合にというように帰るだけだと言います。サンジャヤが「来世は存在するのか」とか「輪廻転生はあるのか」、あるいは「因果応報は存在するのか」といった形而上学的な問いに対して判断中止(エポケー)したのに対して、アジタははっきり否定の立場を打ち出します、来世も輪廻も因果も存在しないと。かくしていかなる責任も罪も否定されることになります。

アジタの唯物論では地水火風の各要素は何のつながりもなく、ただ偶然の離合集散を繰り返すだけですが、縁起の思想はそれと真逆で、あらゆるものは他のものとのつながりにおいてあり、それ自体としては何ものでもありません。唯物論ではそれぞれの要素が基本で、それが偶然つながったり離れたりして神羅万象が生じているとするのですが、縁起ではつながり(縁)が基本であり、あらゆるものは他のものと縦横無尽につながりあっていますが、このつながりは時空を超えており、したがって可逆的です。「これあるに縁りてかれあり」であると同時に「かれあるに縁りてこれあり」です。われらはそのような縦横無尽のつながりのなかにあり、そのつながりを引き受けて生きるしかありません。

ところが普通の因果概念では、因と果は時空のなかにありますから、前なる因が後なる果を生み、それは不可逆です。ここからいわゆる因果応報すなわち善因善果・悪因悪果という考えが出てくるのですが、これは時空を超えた縁起の思想と似て非なるものです。仏教は決して因果を否定するものではなく、因果を撥無するものは仏教ではないと言われるほどですから、責任と罪を否定するわけではありませんが、しかし因果応報の思想はきっぱりと否定すると言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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