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願作仏の心はこれ [親鸞の和讃に親しむ(その46)]

(6)願作仏の心はこれ

願作仏の心はこれ 度衆生のこころなり 度衆生の心はこれ 利他真実の信心なり(第18首)

願作仏心なるものは、度衆生心にほかならず、度衆生心というものが、利他のまことのこころなり

自分が救われたいという願い(願作仏心-自分が仏になることを願う心)は、衆生を救いたいという願い(度衆生心-衆生を済度しようとする心)とひとつであると詠われます。しかしどうしてそんなことが言えるのでしょう。自分が救われたいということでもう頭がいっぱいで、他人を救うなんて思いもつかないのではないのか。そもそも自分が救われていないのに、どうして他人を救うことができようか、と思うのが普通ではないでしょうか。まず自分、他人のことはその先だと。これはしかし「自力のこころ」です。自分で自分を救わなければと思い、そのためにはどうすればいいのかと必死に考えています。そうして首尾よく自分を救うことができたら、そのときに他人を救ってあげることもできるだろうと思っているのです。

しかしここで詠われているのは「利他真実の信心」です。この「利他」はわれらの「利他」ではありません、如来の「利他」です。ここで先回りして曇鸞を持ち出しますと、われらに「他利(他が利する)」はあっても「利他(他を利する)」はありません。「利他」は「ほとけの心」です。われらの救いは、われらがそれを願うより前に「ほとけの心」から願われているのであり、われらはただそのことに気づくだけです。われらの「救われたい」という願いの底に、ほとけの「救いたい」という願いがあることに気づき、だからこそ「救われたい」と願うのです。そして、ほとけの「救いたい」という願いは、一切の衆生を「救いたい」という願いですから、われらが「救われたい」と願うとき、その底に他を「救いたい」という願いがあることに気づきます。かくして「救われたい」は「救いたい」とひとつです。


タグ:親鸞を読む
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