SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その57) ブログトップ

安楽仏国に生ずるは [親鸞の和讃に親しむ(その57)]

(7)安楽仏国に生ずるは

安楽仏国に生ずるは 畢竟(ひっきょう)成仏の道路にて 無上の方便なりければ 諸仏浄土をすすめけり(第43首)

安楽国に生まれるは、ついに仏になるための、この上のない手立てとて、諸仏浄土をすすめたり

『論註』に「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」とあるのにもとづいています。往生浄土はかならずついには成仏に至る道路であり、仏となるのにこれ以上の手立てはないということです。ここで注目すべきなのは、往生を「道路」という「線」をイメージさせることばで表現していることです。われらはともすると往生を「点」として見てしまいがちではないでしょうか。何かが完結したというイメージで、いわば「あがり」として見ているところがあります。これは伝統的な浄土の教えがわれらのなかに染み込ませたイメージですが、この道路ということばは、往生とは実はこれから仏となるべき道がはじまり、成仏に至るまでずっとつづくのだと言っているのです。「はじまり」としては点でも、これからずっとつづくのですから線です。

「点」としての往生のイメージはおのずから死と結びつきます。往生は臨終のときであるというのはもう揺るがぬ通念として伝えられてきました。しかし親鸞は敢然とこう言います、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり」(『末燈鈔』第1通)と。臨終に弥陀の来迎を受けて往生するという伝統的な見方をするのは、自力の諸行往生の行者であり、真実の信心をもっていないものであるとはっきり言います。では真実の信心をもつものはというと、信心をえたそのときに「摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」(同)と言うのです。

「信心の定まるとき往生また定まる」とは、信心のはじまるときに、往生がはじまるということです。そしてそれは「畢竟成仏の道路」としてこれからずっとつづくのです。それが正定聚不退としての生です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その57) ブログトップ