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親鸞の和讃に親しむ(その12) ブログトップ

たとひ大千世界に [親鸞の和讃に親しむ(その12)]

2.たとひ大千世界に

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり(第31首)

広い世界にみちみちる、劫火のなかをすぎるとも、南無阿弥陀仏きくひとは、もはや仏とひとしけれ

大経の末尾にこうあります、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし。この人は大利を得とす」と。そしてそれにすぐつづけて「たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、からなずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、云々」とあるのを受けてこの和讃がつくられています。ですから、この和讃の意味は、たとえ世界中が劫火に覆われようとも、仏のみなを聞くことができた人は、劫火のなかを静かに忍ぶことができるということでしょう。なぜそんなことができるかと言えば、仏のみなを聞くことができた人は「ながく不退にかなふ」からです。不退とは正定聚と同じく「かならず仏となるべき身」ということで、もう「仏とひとしい」ということです。「いつでも帰っておいで」という呼び声が聞こえた人は、もうすでに「仏のもとに帰っている」のと変わりありません。

「いつでも帰っておいで」という招喚の声が聞こえたら「すでに帰ったのにひとしい」ということについて。

ぼくの頭にはフランクルの『夜と霧』が浮びます。アウシュヴィッツの囚人たちは「もはや人生から何ものも期待できない」状況におかれたのですが、そしてその絶望のなかでバタバタと死んでいったのですが、そのなかでごくわずかの人たちが生き永らえることができたのは、「彼ら自身が何かを待っていた」からではなく、逆に「何かが彼らを待っている」と思えたからだとフランクルは教えてくれます。1944年のクリスマスに何か奇蹟が起こるのをひたすら待っていた囚人たちは、その期待に反して何ごともなく過ぎていく時間の中であっけなく命を落としていきましたが、ある囚人は「彼が並外れた愛情をもっている一人の子どもが外国で彼を『待っていた』」ことが彼を死から守ったのでした。「帰ってくるのを待っているよ」という子どもの声が聞こえることで、彼の身はアウシュヴィッツの地獄にありながら、その心はすでに子どものもとに帰っていたのに違いありません。それが彼を救った。


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