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「信じる」と「疑う」 [「親鸞とともに」その78]

(2)「信じる」と「疑う」

本願を信じるとは、すっかり忘れていた本願を思い出すことであると述べてきましたが、これは同じ信じるということばながら、普通に何かを信じるというときの信じるとはおよそ異なると言わなければなりません。

そこで両者の違いについて思いを廻らせてみたいと思いますが、そのための手がかりとして「疑う」との関係に注目しましょう。普通に何かを「信じる」ときは、その裏側にかならず「疑う」ことが貼りついています。「信じる」と「疑う」は対となっており、「信じる」度合が大きいときでも、そこには何がしか疑いが含まれています。ですから信と疑にはグラデーションがあり、「ほとんど」信じるからはじまって、「ほぼ」信じる、「まあ」信じるとなり、分岐点を越えると、「やや」疑う、「かなり」疑う、そして「ほとんど」疑うと変わっていきます。ここには「絶対」はありません。「わたしは絶対信じています」という場合がありますが、そのように力んで言うこと自体、そこに疑いが潜んでいることを示しています。

これは「わたし」が「何か」について信を与えていいかどうかを判定しているということで、どの程度信じていいかを計っているのです。それに対して本願を信じるとは、「わたし」が本願を信じるのではなく、すっかり忘れられていた本願がみずから浮上してきたことによって、これまでまったく意識に上っていなかった本願の存在にはじめて気づいていることです。「わたし」が何かを信じるというときは、「わたし」が何かをつかまえて、それが信じるに値するかどうかを検分しているのですから、そこには最初から疑いが貼りついていますが、本願を信じるときには、反対に本願の方が「わたし」をむんずとつかまえ、もう決して放そうとしません。ですから、ここには「疑う」という要素はまったくありません。

本願を信じるというときの信は、そのもとの梵語は「プラサーダ」で、「澄清」ということ、これまで濁っていた水がさーっと澄んで清らかな状態になることを意味します。疑いが晴れて、澄みきった心の状態が信です。


タグ:親鸞を読む
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