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阿闍世王の為に涅槃に入らず [「信巻を読む(2)」その101]

(4)阿闍世王の為に涅槃に入らず

阿闍世を廻るドラマの第二幕に移ります。阿闍世が救いを求めて自分のところに来るのを知った釈迦が弟子の迦葉(かしょう)に語ることばです。

またのたまはく、「〈善男子(迦葉よ)、わがいふところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義(深い意味)、なんじいまだ解くことあたはず。なにをもつてのゆゑに。われ《為》といふは一切凡夫、《阿闍世王》とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。また《為》とはすなはちこれ一切有為の衆生(迷える凡夫のこと)なり。われつひに無為の衆生(迷いをはなれたもの)のためにして世に住せず。なにをもつてのゆゑに。それ無為は衆生にあらざるなり。《阿闍世》はすなはちこれ煩悩等を具足せるものなり。また《為》とはすなはちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、われつひにために久しく世に住せず。なにをもつてのゆゑに。仏性を見るものは衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざるものなり。乃至 また《為》とは名づけて仏性とす。《阿闍》は名づけて不生とす。《世》は怨に名づく。仏性を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち煩悩の怨(あだ)生ず。煩悩の怨生ずるがゆゑに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもつてのゆゑにすなはち仏性を見る。仏性を見るをもつてのゆゑに、すなはち大般涅槃に安住することを得。これを不生と名づく。このゆゑに名づけて阿闍世とす。善男子、《阿闍》は不生に名づく。不生は涅槃と名づく。《世》は世法に名づく。《為》とは不汚(ふわ)に名づく(「ために」とは汚されないということです)。世の八法(利、衰、毀、誉、称、譏〈そしる〉、苦、楽)をもつて汚さざるところなるがゆゑに、無量無辺阿僧祇劫に涅槃に入らず。このゆゑにわれ《阿闍世王の為に無量億劫に涅槃に入らず》とのたまへり。善男子、如来の密語不可思議なり。仏法衆僧また不可思議なり。菩薩魔訶薩また不可思議なり。『大般涅槃経』また不可思議なり〉と。


タグ:親鸞を読む
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