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往相がそのまま還相 [「『証巻』を読む」その16]

(5)往相がそのまま還相

一旦浄土に往生して、しかる後にふたたび娑婆に還ってくるという見方は、浄土を娑婆とは別のどこかにある世界と捉えることから生まれてきます。浄土が別の世界でしたら、まずそこに往き(これが往相)、しかる後に還る(これが還相)しかありません。しかし、何度も言いますように、親鸞にとって往生とはこことは別のどこかに往くことではありません、「いまここ」で正定聚として生きることです。これまではひたすら「わたしのいのち」を生きるだけでしたが、いまや「わたしのいのち」を生きながら、同時に「ほとけのいのち」に摂取不捨されていることに気づいています。このように、往生とはこれまでとは別の新しい生がはじまることであるとしますと、還相のイメージがまったく違うものになります。正定聚としての新しい生がはじまること、これがすなわち往相であり、そして同時に還相です。

もういちど「ただちに帰って来れ」という不思議な声が聞こえてくる現場に立ち返りますと、この如来の梵声がわれらのこころに届くということは、すっかり忘れていた「ほとけのいのち」を想い起こすことです。そのとき「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」とひとつになっています。「わたしのいのち」が消えて「ほとけのいのち」になるのではありません、「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」のなかに摂取不捨されるのです。これが正定聚としての生のはじまりですが、それは「ほとけのいのち」の願いすなわち本願を「わたしのいのち」のほんとうの願いとして生きることに他なりません。

これまではひたすら「わたしのいのち」の願いを実現することに血道をあげていましたが、いまや「わたしのいのち」の願いの奥底に、すっかり忘れ果てていた「ほとけのいのち」の願いがあることを想い起こしたのです。かくして「ほとけのいのち」の願いをわが願いとして生きることがはじまります。これが還相ですから、往相とは別に還相があるのではなく、往相がそのまま還相ということです。詳しいことは還相についての論がはじまるときに譲りましょう。


タグ:親鸞を読む
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