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仏教に随順し、仏意に随順する [『教行信証』「信巻」を読む(その56)]

(5)仏教に随順し、仏意に随順する


  『大阿弥陀経』や『平等覚経』という『無量寿経』の古いバージョンをみますと、『大経』や『如来会』では第十七と第十八の二つの願に分かれているのが一つの願となっています。たとえば『大阿弥陀経』にはこうあります、「某(それがし)作仏せしめん時、わが名字をもつてみな、八方上下無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛蠕動(けんびねんどう、空を飛び、地を這う虫たち)の類、わが名字を聞きて慈心よろこぶ心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ」と。


これを見ますと、前半で十方の諸仏に「わが功徳・国土の善を説かしめ」ること、すなわち名号を称えさせることが誓われ、後半で「わが名字を聞きて…歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ」ることが誓われていて『大経』の第十八願成就文とまったく同じ説き方になっていることが了解できます。もう明らかなように、もともと一つであった願が『大経』において第十七と第十八の二つの願に分けて説かれるようになったのです。そして第十七願では諸仏が弥陀の名号を称えるというかたちで本願を一切の衆生に届けることが誓われ、第十八願ではその名号(こえ)を聞いて歓喜踊躍する衆生を浄土へ往生させることが誓われています。


これは何を意味するかといいますと、本願と名号はひとつであるということ(正信偈には「本願の名号は正定の業なり」とあります)、したがって本願を信じることは名号を信じることに他ならないということです。そしてここで「仏教に随順し、仏意に随順する」(この「仏」は諸仏です)と言われているのは、取りも直さず名号に随順することであり、名号に随順するとは名号(こえ)のはたらきをわが身に感受するということです。そしてそれが「仏願に随順する」(この「仏」は阿弥陀仏です)ことであり、本願を信受することに他なりません。



タグ:親鸞を読む
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