SSブログ
「『正信偈』ふたたび」その2 ブログトップ

行信ということば [「『正信偈』ふたたび」その2]

(2)行信ということば

「正信偈」には序文がついていますので、それを読んでおきましょう。前後二段に分け、まず前段から。

 

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

 

はじめに「行信」ということばについて。まず「行」があり、そして「信」があるということで、『教行信証』の構成も、先に「行巻」(第2巻)、次いで「信巻」(第3巻)となっています。これはしかしわれらの常識に反すると言わなければなりません。普通に考えますと、まずあることを信じ、その上でそれを行うという順序になるもので、何かを行ってから信じるというのは逆さまでしょう。としますと、ここで「行」と言い、「信」と言われているものは、われらが普通に行・信という語から思い浮かべることとは異なるということになります。

ここで「行」と言われますのは、その願が第十七の願、その名も「諸仏称名の願」であることからも分かりますように、われらがわれらのはからいで為す行ではなく、如来が如来のはからいで為す行のことです。その行とは、言うまでもなく「南無阿弥陀仏」と称えることですが、しかしそれをわれらが称えるのではなく、諸仏が称えるのです。われらは称名念仏と聞きますと、それはわれらが為すものであり、それ以外の何ものでもないと思いますが(ぼくは長い間そう思い込んでいました)、称名念仏はそもそも諸仏が為すものであること、これをまず確認しておきたいと思います。

しかし諸仏が称名念仏するとはどういうことでしょう。そのことにどんな意味があるのかは『大経』の第十七願を見るだけではあまり明瞭ではありませんが、『大経』の古い異訳本(『無量寿経』には『大経』を含めて五つの漢訳が残されています)の該当する願を見ますと、こうあります、「わが名字をもってみな、八方上下無央数(むおうしゅ、無数)の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん」(『大阿弥陀経』)と。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「『正信偈』ふたたび」その2 ブログトップ