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発信と受信 [「信巻を読む(2)」その56]

(10)発信と受信

すぐ前のところで「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」という『大経』の文が出てきました。釈迦はわれらの師であり、われらは仏弟子であるはずなのに、どうして釈迦は弟子を「親友」と呼ぶのかといいますと、釈迦もまた真実のことばを聞く人であるからであり、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ぶ」という点において弟子と何も変わりませんから、弟子は弟子でありながら同時に「わが善き親友」であるわけです。釈迦は法(真実のことば)を発信する医者ですが、同時に法を受信する病者でもあり、その点において弟子と同じ立場(御同朋、御同行)にあるということです。

釈迦が真実のことばを発信できるのは、それを受信したからであり、真実のことばを受信すれば、それを発信せざるをえなくなるのです。そして釈迦の発信した真実のことばを受信した人(真の仏弟子)は、またそれを発信せざるをえなくなり、かくして真実のことばは人から人へ次々に受け渡されていくことになります。しばしば言いますように、本願名号は人から人へとリレーされていくのです。しかしここで疑問がおこるかもしれません。どうして真実のことば(本願名号)を受信した人は、それを発信せざるをえないのか。それを自分のこころのなかにとどめて、誰にも発信しないということも十分考えられるではないか、と。

この疑問には「所有」の観念が顔を覗かせています。すなわち、自分でキャッチしたのだから「わがもの」であり、それをどうするかは自分の裁量だという発想があります。しかしあらためて確認しておきたいのですが、真実のことば(本願名号)はわれらが「わが力」でキャッチするものではありません。逆です。真実のことばがその力でわれらをキャッチするのです。真実のことばはその力でわれらのもとにやってきて、われらを救うはたらきをし、そしてまたその力で別の人のところに移っていくのです。そこに「わが力」の入る余地はまったくありません。


タグ:親鸞を読む
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