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気づきは向こうから [正信偈と現代(その108)]

(7)気づきは向こうから

 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」という結論に「みずから」到達したような言い方をしますが、そこにはひとつのごまかしがあることを見てきました。そもそも無意識の前提を「みずから」意識することがどうしてできるでしょう。それが無意識であるということは、そんな前提があることにまったく気づいていないということであり、それは「どこかから」気づかせてもらうしかありません。唯識の説く末那識も同じで、末那識が無意識である以上、それに「みずから」気づくことは不可能ですから、「どこかから」気づかせてもらうしかないでしょう。
 かくして「物語のことば」が必要となってくるのです。実在する誰かからと言うことができない以上、その誰かを創作することが求められるからです。
 フロイトの患者の場合でしたら、患者は自分の無意識のなかにあるものをフロイトから気づかせてもらえたということができます。無意識のなかに潜んでいるものを「みずから」は気づくことができず(だからそれが精神疾患として現れているのですが)、それをフロイトに気づかせてもらい(フロイトは患者の夢などから無意識のなかにあるものを分析します)、「あゝ、そうだったのか」と自覚することができます(その結果、精神疾患は癒されます)。しかし末那識の場合は、それを実際の誰かから気づかせてもらうと言うことはできませんから、ここに物語が創作されることになるのです。
 さて、実際に存在する誰かから気づかせてもらえたか、それとも物語のなかの誰か(弥陀仏)から気づかせてもらえたかは、気づきそのものにとって本質的なことではありません。大事なことは気づきが与えられることそのものですから、もしフロイトの患者がフロイトからではなく、ある物語から気づきを与えられたとしても、その気づきが有効である限り、何の違いもないということです。

タグ:親鸞を読む
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