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信心の門 [親鸞最晩年の和讃を読む(その49)]

(5)信心の門

 「わたし」が信心をゲットするのではなく、信心が「わたし」をゲットすると言いましたが、それを、こちらから信心の門に入るのではなく、気がついたら信心の門に入っていたと表現することができます。
 門で思い出すのは東大寺の南大門です。と言いますのも、ぼくは中学から高校時代、毎日この南大門をくぐって登校していたのです。ぼくの学校は南大門の向こう側、東大寺の境内にありましたから、学校に通うには南大門をくぐらなければなりません。ぼくは毎朝、南大門を入門して学校に通っていたのです。さてこのように門に入るとき、当然のことながら、門はいつも前にあります。門を前に見て「よし、門に入ろう」と思いながら(それを一々意識しているわけではありませんが)くぐるのです。
 しかし信心の門は様子が違います。門を前に見て「よし、入ろう」と思って入るのではなく、気がついたらもう入ってしまっているのです。
 門を前にしてこれから入ろうとするときは、何らかの目的意識がはたらいています、ぼくが南大門に入るのは学校に通うためであるというように。信心の門も、これから入ろうとするのでしたら、往生しようという目的があってのことでしょう。しかし、すぐ前のところで見ましたように、往生のために信心するというのは、信心という原因から往生という結果が継起するということであり、信心がそのまま往生という縁起の関係ではありません。では信心がそのまま往生とはどういうことかといいますと、気がついたらもうすでに門に入っていたということです。
 門を前に見て入るのではなく、気がつくと門はすでに後にある、これが信心の門に入るということです。
 これまた思い出話ですが、むかし「ふり向けば愛」という映画がありました。ぼく自身が観たのではなく、妻から話を聞いただけなのですが、そのタイトルが妙に印象に残っています。映画自体はありふれた青春純愛物語だろうと思うのですが、タイトルは秀逸であると感じました。それだけで愛の本質をみごとに捉えています。愛というものは、こちらから得ようとして得られるのではなく、ふりむくともう愛のなかにあるということであると。信心も、こちらから得ようとすればするほど遠ざかりますが、あるときもう信心のなかにいることに気づくのです。

タグ:親鸞を読む
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