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虚仮不実のわが身 [親鸞最晩年の和讃を読む(その95)]

(2)虚仮不実のわが身

 「虚仮不実のわが身」で思い出しますのは、善導『観経疏』散善義の至誠心釈です。『観経』に「至誠心・深心・回向発願心の三心があって往生できる」とあるのを善導は詳しく解説しているのですが、その至誠心についてこう言っています、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことをえざれ」と。もとの漢文は「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」で、これを普通に読み下しますと上のようになりますが、親鸞はこう読むのです、「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」と。これはちょっと無理すじというものでしょう。最後に「故」という一字でもついていれば、そのような読みも成立しますが、これをそのままで「懐けばなり」と読むのはかなり大胆と言わなければなりません。
 『教行信証』を読みますと、もう至るところと言っていいくらい、このような独自の読みがなされています(『教行信証』は漢文で書かれていますが、親鸞はそこに自分で訓点を施していますので、彼がどのように読み下していたかが分かるのです)。読んでいまして、ときどき、こんなに自由に読んでいいものかと不安になるほどです。思いますに、親鸞という人は「文字を読む人」ではなく、文字の奥から届いてくる「声を聞く人」なのでしょう。文字を眺めるうちに、そこから声が聞こえてきて、その聞こえたままに読んでいく。それがどれほど普通の読みからズレていたとしても、自分の耳に聞こえた声の方を優先するのだろうと思われます。
 さてもう一度、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことをえざれ」という普通の読みと、「外に賢善精進の相を現ぜざれ、内に虚仮を懐けばなり」という親鸞独自の読みを比べてみましょう。前者は分かりやすく、素直に頷けます。外には真実を装い、内に虚仮を懐いていてはいけませんと優しく諭していて、われらの常識にしっくり馴染みます。一方、後者はというと、何とも激しいことばと言わざるをえません。これを思い切って平たく言い換えますと、「この嘘つきめ!善い人ぶるではない。お前の心には虚仮がいっぱいつまっているではないか」となります。

タグ:親鸞を読む
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