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弥陀の智願海水に [親鸞の和讃に親しむ(その89)]

(9)弥陀の智願海水に

弥陀の智願海水に 他力の信水いりぬれば 真実報土のならひにて 煩悩・菩提一味なり(第23首)

弥陀本願の海水に、信心の水いりぬれば、真の浄土のこととして、煩悩・菩提一味なり

本願の海に入ることができますと(自分で入ろうと思って入るのではありません、気がついたらもう入っていたのです)、煩悩と菩提はひとつであると詠われます。「煩悩即菩提」は大乗仏教の究極の真理とされ、煩悩をほかにして菩提があるわけではないことに目覚めることが求められます。さてしかしこれは何ともパラドキシカルな言表であり、近づきがたい難解さがあります。そもそも菩提(ボーディ)とは仏の悟りのことであり、「一切の煩悩から解放された、迷いのない状態」(『岩波仏教辞典』)とされます。としますと、「煩悩即菩提」とは、煩悩と煩悩から解放された状態とがひとつであるということですから、これはもうまったき矛盾と言わなければなりません。いったいこのまったき矛盾が窮極の真理であるとはどういうことか。そこで「弥陀の智願海水」の登場です。本願の海水に入ることができますと、この矛盾が矛盾でなくなるのです。

まず言わなければならないのは、本願の海水のなかではじめて煩悩に気づかされるということです。本願の海に入ってはじめて煩悩が煩悩になるのです。煩悩といいますと、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)の三毒が上げられますから、「ああ、自分のなかにはこの三毒がある」と自分で気づき、みんな多かれ少なかれ煩悩をもっていると思うものでしょう。しかしこれは煩悩に否応なく気づかされているのではありません。自分で自分の煩悩に気づくときには「上げ底」がしてあるものです。自分のなかには貪りや怒りがあるのは確かだが、同時に、困っている人をたすけようという思いもあるし、人の喜びを見て自分も喜ぶことができるとも思っています。自分には煩悩という悪もあるが、それを補って余りある善もあると思っているのです。それに対して煩悩に否応なく気づかされるということは、その気づきに打ちのめされるということです。気づかされた己の煩悩の前に、もう申し開き様がなくうなだれるということです。

さてそのとき、その気づきをもたらしているのが本願であるという気づきもあります。本願はわれらに煩悩の気づきをもたらし、そんな煩悩をもったままのわれらを摂取不捨してくれるのです。これが「煩悩・菩提一味なり」ということです。


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