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往還の回向は他力による [『教行信証』「信巻」を読む(その138)]

(9)往還の回向は他力による

このように回向の原義が「おのれが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀仏の安楽浄土に往生せんと作願する」ことであるとしますと、これはもはや自力回向ではありえず、他力回向にならざるを得ません。なぜなら、ここまでの三心釈の中で繰り返し言われてきましたように、われらの功徳たるやその中身は虚仮雑毒と言わざるを得ず、またそれを一切衆生に分け隔てなく回施することなどできるわけがないからです。かくして「往還の回向は他力による」(「正信偈」)ということになり、したがって往相があってのちに還相があるのではなく、往相がそのままで還相であるという結論になりますが、ここから重要なことが出てきます。

往相とは浄土へ往くことで、還相はそこから娑婆に還ることであるとされますが、この言い方そのものがこちらに娑婆があり、あちらに浄土があるという構図の上に成り立っています。しかし往相があってのちに還相があるのではなく、往相がそのまま還相であるとしますと、この構図が崩れます。往くことがすなわち還ることであるということは、これはもう空間的移動ではありえません。先ほど往相と還相はコインの表と裏の関係だと言いましたが、娑婆と浄土の関係も同じように娑婆の裏を見れば浄土であり、また浄土の裏を見ると娑婆であるということです。

これは往生のイメージを根本から変えてしまいます。往生の普通のイメージとしては、この娑婆からここではないどこかにある浄土へ往くのですから、それはおのずからいのち終わるときのことになります。こうして臨終のときに阿弥陀仏および聖聚たちの来迎を受け、蓮華の(うてな)に乗って彼方の極楽浄土へ往くという『観経』によってつくられた往生観が人々の心に定着することになりました。しかし如来回向の信心をえたそのとき浄土に往生するであり(即得往生)、そしてその往相がそのままで還相であるとしますと(往相即還相)、往生とはここではないどこか(アナザーワールド)へ空間的に移動することではなく、「いまここ」でこれまでとはまったく異なる新しい風光が生まれること、善導のことばを借りますと、「前念に命終して後念にすなはち生る(前念命終、後念即生)」ことであると言わなければなりません。


タグ:親鸞を読む
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