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見えない力はそれに気づいてはじめて存在する [『一念多念文意』を読む(その160)]

(9)見えない力はそれに気づいてはじめて存在する

 見えない力はそれに気づいてはじめて存在することが分かります。「させられている」と感じてはじめてそれが存在することになるのです。くじ引きの場合は、他の人が当たりを出せば、それで当たりのあることが確認できますが、見えない力は、他の人が当たったとしても、当たりがあることにはなりません。自分が当たってはじめてそれがあることが分かるのです。
 見えない力は客観的にあるものではないということです。もしそれが客観的にあるものでしたら、どんな場合にそれを感じることができ、どんな場合は感じることができないかをはっきりさせることができるかもしれません。しかしそれぞれの人がそれを感じてはじめてあるとしますと、もう何ともしようがありません。
 これまで見えない力と言ってきたものを他力と言い換えましょう。本願他力、あるいは本願力です。
 誰に命じられているわけでもなく、自分ですすんでしたことですが、でも「させられている」と感じる、これが本願力です。本願力を感じて何かをするのではありません、何かをしてしまってから本願力に「させられている」と感じるのです。いつでもそう感じるわけではないでしょうが、ふとそう感じることがある。
 ひょっとしたら、あらゆることに「させられている」という感覚をもつ人がいるかもしれません。朝起きてごはんを食べては「食べさせていただいている」と感じ、お茶を飲んでは「飲まさせていただいている」と感じ、畑を耕しては「耕させていただいている」と感じる。このような人のことを妙好人と言うのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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