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第2段本文 [親鸞の手紙を読む(その56)]

(5)第2段本文

 『末燈鈔』第6通の第2段です。

 かまへて学生沙汰(がくしょうざた)せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。故法然聖人は「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき。文沙汰して、さかさかしきひとのまゐりたるをば、「往生はいかがあらんずらん」と、たしかにうけたまはりき。いまにいたるまで、おもひあはせられ候ふなり。ひとびとにすかされさせたまはで、御信心たぢろかせたまはずして、おのおの御往生候ふべきなり。ただし、ひとにすかされさせたまひ候はずとも、信心の定まらぬ人は正定聚に住したまはずして、うかれたまひたる人なり。
 乗信房にかやうに申し候ふやうを、ひとびとにも申され候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

 (現代語訳) 決して学者ぶったりなさらないで、往生をとげてください。故法然聖人は「浄土宗の人は愚者となって往生するのがよろしい」と言われたのを確かにうけたまわっております。ものも弁えないあさましい人たちが来られたのを聖人が御覧になって、「必ず往生できます」と言われて微笑まれたことがあります。また、学問をしてしっかりしている人が来られた時は「往生できるでしょうか」と言われたのを確かにうけたまわりました。そんなことが今思い合わされます。いろいろな人の言うことに惑わされず、信心をゆるがせにしないで、おのおの往生をとげてください。もっとも、人の言うことに惑わされなくても、信心がしっかりと定まらない人は、正定聚の位につくことができず、ふらふらしている人です。
 あなたにこのように申しましたことを、他の人々にもお伝えください。謹言。

 第1段の「愚痴無智のひと」と対照的に「文沙汰して、さかさかしきひと」のことが取り上げられ、「かまへて(決して)学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし」と述べられます。

タグ:親鸞を読む
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