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またまた正定聚について [『末燈鈔』を読む(その257)]

(3)またまた正定聚について

 この手紙の主題は、真実信心の定まるとき正定聚(仏となることが約束された人)となる、これでしょう。ここに親鸞浄土教の真髄があり、親鸞はそれを繰り返し巻き返し説いて聞かせているのです。
 専信房の手紙の中に「往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまいらせ候ぬれば、同一也」とありますが、主語と述語がうまくつながらず、すんなり頭に収まってくれません。つながりがよくなるようにことばを補いながら読みますと、「往生の業因は信心が発起することだが、そのときに無碍の心光に摂取されるのだから、信心の発起と心光に摂取されることは同じことだ」となるでしょうか。親鸞はそのことを、信心が定まるときに摂取不捨にあずかり、それが正定聚になることだと述べているのです。
 その根拠として第11願、必至滅度の願があげられます。親鸞は少し先のところでこの願を正定聚の願とよんでいます(「十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願はせむなく候べきか」)。そして親鸞は『教行信証』「証巻」冒頭にこの第11願を出しています。仏教で「証」と言えば仏となること、成仏であるはずですが、親鸞は正定聚に定まることに焦点を当てるのです。
 言うまでもなく、仏となるのは「これから」のこと、いのち終った後ですが、正定聚に定まるのは「いまここ」のこと、ここに親鸞浄土教を理解する鍵があります。
 「これから」のことは、どれほど確からしくても、あくまでも蓋然性に留まります。「これまで」こうであったから「これから」こうなるだろうとしか言えません。明日は90パーセントの確率で晴れます、という天気予報は、「これまで」のデータでは、10回のうち9回が晴れでした、という意味にすぎません。ですから、どしゃ降りの雨になったとしても、予報官がウソをついたわけではありません。たまたま10回のうちの1回のきわめて稀なケースが起こってしまっただけのことです。


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