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「『正信偈』ふたたび」その14 ブログトップ

まず願いありき [「『正信偈』ふたたび」その14]

(5)まず願いありき

無上殊勝の願をつくるに当たり五劫という長い時間をかけて熟慮され、さらにそれに重ねて「わたしの名が十方世界に漏れなく聞こえますように」誓われたと言われます。これは本願のすべてを「南無阿弥陀仏」という名号に込めて、一切の衆生のもとに送り届けたいと願われたということです。これにより本願と名号とはひとつであると言われているのです。このようにして出来上がったのが弥陀の本願ですが、弥陀の本願と言うものの、それをつくったのは法蔵菩薩であることが分かります。本願とは「プールヴァ・プラニダーナ」すなわち「本(前)の願い」ということで、阿弥陀仏の本である法蔵菩薩の願いであることを意味しています。

これまで、まず阿弥陀仏という仏がいて、その仏に本願のはたらきがあるのではなく、逆に、まず本願のはたらきがあり、そのはたらきをするものとして阿弥陀仏が仮構されているにすぎないということを縷々述べてきました。第一義的に存在するのは阿弥陀仏という「体」ではなく、本願のはたらきという「用」であるということです。そのことがこの法蔵菩薩の物語においては、はじめから阿弥陀仏という仏がいたのではなく、まず法蔵菩薩の大いなる願いがあり、それが成就することで阿弥陀仏という仏が現われることになったと説かれていると見ることができます。はじめに阿弥陀仏ありきではなく、まず大いなる願いありきで、その大いなる願いのはたらきに阿弥陀仏という名が与えられたにすぎないということです。

さらに考えてみたいのが、大いなる願いを立てた法蔵菩薩とは誰のことかということです。「国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる」という『大経』の説き方から、釈迦が法蔵のモデルになっていることがうかがわれますが、とにかく法蔵菩薩はわれらと同じ一人の人間であるということです。本願とはもともと一人の人間の立てた願いであるということ、これの意味することに思いを潜めたい。


タグ:親鸞を読む
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