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不淳、不一、不相続 [はじめての『高僧和讃』(その92)]

(12)不淳、不一、不相続

 曇鸞は「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と述べ、ではどうして名号を称えても「無明のなほありて所願を満てざる」ことがあるのかと問います。そしてこう答えるのです、「三種の不相応あり。一には信心淳(あつ)からず、存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑなり」と。これがそのまま第48首と第49首に詠われています。
 そして曇鸞はこの三種の不相応は互いにつながりあっているとしてこう言います、「信心淳からざるをもてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信をえず。決定の信をえざるがゆゑに心淳からざるべし」と。これがほぼそのまま第50首から第52首の三首に詠われています。なぜ名号を称えても願いが満たされないのかと言えば、その信のあり方に問題があるというのです。信が「不淳」であり「不一」であり「不相続」であるから、どれほど名号を称えても無明の闇から出られないのだと。
 親鸞は『教行信証』でこう言っています、「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(信巻)と。ここに信心と念仏の関係が明らかです。真実の信心があればかならず念仏があるが、念仏があるからといって、かならずしも真実の信心があるとは限らないということです。真実の信心とは「淳心」であり「一心」であり「相続心」であるということは、要するに「他力の信」ということで、逆に「不淳」であり「不一」であり「不相続」である信心は「自力の信」であるということです。
 「自力の信」と「他力の信」、結局ここに戻ってきます。

タグ:親鸞を読む
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