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金剛堅固の信心の [親鸞の和讃に親しむ(その68)]

(8)金剛堅固の信心の

金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護(しょうご)して ながく生死をへだてける(第77首)

もはやこわれることのない、信のさだまるそのときに、弥陀の光につつまれて、すでに生死の迷いなし

信心の定まるときに何が起こるかを詠っています。「弥陀の心光摂護して」とは「摂取不捨」ということで、これは『観経』に「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず(光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨)」とあることに由ります。親鸞はこれを「真実信心をえんとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定聚の位にさだまる」(『尊号真像銘文』)と注釈しています。さらに手紙のなかで「信心の定まるとき往生また定まる」(『親鸞聖人御消息』第1通)とも言っていますので、親鸞にとって摂取不捨と正定聚の位と往生の三つは同じことを指していると理解できます。

さて問題は次の「ながく生死をへだてける」です。これは一体何を意味するか。『歎異抄』の著者・唯円は、親鸞の教えを歪める異説のひとつとして、信心のひとは「煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらく」と説くものがあることを批判するなかで、この和讃を取り上げています(『歎異抄』第15章)。この異説を唱える人が和讃の「ながく生死をへだてける」を「すでにさとりをひらく」ことと理解しているのを「あはれに候ふ」と厳しく退けているのです。唯円はその一句を「信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をへだて候ふぞかし」と理解すべきであると言うのです。

「ながく生死をへだてける」を、ぼく流に言い替えますと、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」のなかに包み込まれていることに目覚めるということです。生死をへだてるとは、これまでただひたすら「わたしのいのち」しかないと思っていたのが(「わたしのいのち」に囚われていたのが)、実は「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで生かされていることに気づくということです。信心のときに「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」になるのではありませんが、でもいずれかならず「ほとけのいのち」になるのですから、もう「仏とひとし」と言わなければなりません。


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