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無生忍とは [『観無量寿経』精読(その92)]

(2)無生忍とは

 思い返してみますと、釈迦は韋提希に西方極楽世界を観る方法を説くに当たり、こう述べていました、「かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。阿弥陀仏とその浄土を観ることができたそのとき、心歓喜し、無生法忍を得ることができるというのです。このことばといまの「仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり」はぴたりと対応しています。
 さてこの無生法忍(無生忍)とは何でしょうか。『無量寿経』の四十八願のなかにこのことばは登場します。まず第三十四願に「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持(じんそうじ、深い智慧)を得ずは、正覚を取らじ」とあり、さらに第四十八願に「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍(音響忍、柔順忍、無生法忍)に至ることを得ず、諸仏の法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ」とあります。
 『観経』は「仏身および二菩薩を〈見たてまつる〉ことを得て」であるのに対して『大経』は「わが名字を〈聞きて〉」とあるところに両経の特徴が出ていますが、いずれにしても、そのとき無生法忍を得ることができます。そして第四十八願にありますように、無生法忍とは不退転、すなわち仏となる身から退転することのない境位と等しいとされます。そこから親鸞は『浄土和讃』の勢至讃のなかで、「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」と詠い、その左訓として「不退の位とまうすなり。かならず仏となるべき身となるとなり」と述べています。
 無生法忍の意味は不生不滅の真実に目覚めるということで、これをぼく流に言い換えますと「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」すなわち「アミタ(無量)のいのち」であると気づくことです。仏とその浄土を観ることができた時(『観経』)、あるいは仏の名号を聞くことができた時(『大経』)、無生法忍を得るということは、その時「その心すでにつねに浄土に居す」ということではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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