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法と機 [『教行信証』「信巻」を読む(その11)]

第2回 真実の信楽まことに獲ることかたし


 (1) 法と機


 「序」のあと、「信巻」の標挙の願(巻頭に掲げられる願)がきます。


至心信楽の願(第十八願) 正定聚(かならず仏となることに定まっているもの)の機


これを「行巻」の場合と比べますと、「行巻」では標挙の願として「諸仏称名の願」(第十七願)が上げられ、その下に「浄土真実の行 選択本願の行」と二行に分けて書かれていました。すなわち浄土の行である称名は第十七願によるということ、そして称名は浄土の真実の行であり、如来が本願として選択した行であることが巻頭に表名されたのです。それに対して「信巻」では標挙の願として「至心信楽の願」が上げられ、浄土の真実の信は第十八願をもととすることが明らかにされます。そこまではいいとしまして、その下にくるのが「正定聚の機であることは少し立ち止まって考える必要があります(機とは法を受ける対象、すなわちわれら衆生のことです)。


「行巻」にならって「浄土真実の信 選択本願の信」としてもよさそうなところを「正定聚の機」としていることにはどんな意味があるのでしょう。細かいことのようですが、ここには大事なことが隠れています。それはつまり「行巻」は「法の巻」であるのに対して、「信巻」は「機の巻」であるということです。すなわち「行巻」は「如来の領分」に属することがらであるのに対して、「信巻」は「われらの領分」に属することがらであるということです。これまで繰り返し「行と信は一体である」と言ってきましたのは「法と機は一体である」ということで、本願と信心はひとつであるということです。しかしその表裏一体となっているものも表から見るときと裏から見るときでは異なった相貌をしています(百円コインの表には「100」とありますが、裏には何やら複雑な模様が描かれています)。


もういちど本願と信心の関係をおさらいしておきますと、本願なるもの(体)があって、それをわれらが信じるのではなく(それは自力の信です)、本願は本願力(力用)としてわれらにはたらきかけており、それがわが身の上に生き生きと感じられるのが他力の信でした。このように本願のはたらきが「いまここ」で感じられているとき、本願と信心は一つになっています。このように一つになっている本願と信心ですが、それをはたらきかけている本願の側から見るときに「行巻」となり、はたらきかけられているわれらの側から見るときに「信巻」となるということです。



タグ:親鸞を読む
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