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前念命終 後念即生 [「親鸞とともに」その80]

(4)前念命終 後念即生

ところが本願の信がおこりますと、その構造がひっくり返ります。何度も言いますように、本願の信がおこるとは、これまで深層意識のなかに押し込まれていた本願が、あるときふいに姿をあらわすということです。それを、すっかり忘れていた本願を、あるとき突然思い出すとか、これまでまったく気づくことのなかった本願に、思いがけず気づくと言ってきました。

これまでは各自それぞれの「わたしの願い」を実現しようとしてわき目もふらず生きてきましたが、あるとき、そうした「わたしの願い」の根底に「ほとけの願い」が息づいていることに気づくのです。これは、これまで「わたしのいのち」をひたすら「わたしの力」で生きていると思っていましたが、実は、そう思うことも含めて、すべて「ほとけのいのち」のはからいで生かされていると気づくことに他なりません。「ほとけのいのち」に願われ、はからわれているから、「わたしのいのち」を生きることができるということです。

「わたしのいのち」をひたすら「わたしの力」で生きている、から、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」のなかで生かされている、への転換です。

この転換は、先ほどから言っていますように、世界の構造が根底から覆るという経験です。新たな知見を得て、それにより世界像が塗りかえられるどころの騒ぎではなく、生きることの根本前提が180度ひっくり返ることです。中国浄土教の僧・善導のことばをお借りしますと、「前念命終 後念即生」(『往生礼讃』)とも言うべき出来事と言わなければなりません。善導はこのことばを文字通り臨終のこととして語っており、臨終に仏を正念することで、直ちに浄土に往生できる(即生)と言っているのですが、親鸞はこれを信のそのときにもってきます。

親鸞がこのことばを解釈している文を紹介しますと、「本願を信受するは前念命終なり。すなはち正定聚(かならず仏となるべき身)の数に入る。即得往生は後念即生なり。即の時必定(正定聚と同じ)に入る」(『愚禿鈔』)とあります。本願を信じたそのとき、これまでの古い自分は死に、正定聚としての新しい自分が生まれるということです。そしてそれが「即得往生」、つまり「すなはちのときに往生を得」ることだと言うのです。


タグ:親鸞を読む
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