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あはれみをなし [親鸞の手紙を読む(その27)]

(13)あはれみをなし

 ふたたび自力と他力の問題です。そしりあい、憎みあい、争いあうのは、同じ自力という土俵に立っているからです。
 そもそも、そしったり、憎んだり、争うというのは互いに比較して優劣を競うということですが、互いを比べるには同じ土俵に立たなければなりません。はじめからまったく別の土俵にいれば、比べることはなく、したがってそしったり、憎んだり、争うことはありません。人間同士が互いにそしりあうのは日常茶飯ですが、人がたとえば車にむかって「おまえはどうして人の気持ちが分からないのか」とののしることはありません。
 自力と他力もまったく別の土俵にありますから、他力の立場の人が自力の立場の人にむかって「おまえはどうして他力の気持ちが分からないのか」とののしることはありません。まだ他力に遇ったことがない人を自力の人というのですから、他力の気持ちが分からないのは当たり前のことで、むしろそういう人には「あわれみをなし、かなしむこころをもつ」ことになるわけです。
 自力の人が他力の人をそしるのは、みな同じ自力の立場にあるはずなのに、その原理から外れるようなふるまいをする人がいるからです。そこから「おまえはどうもおかしい」と非難することになります。これは何も不思議ではありませんから、そういうことだろうなと納得すればいいのですが、非難されたことが憎らしくなるのは、その人も実は「同じ穴のむじな」であるからと言わざるをえません。
 一見すると他力だが、実は自力。「本願を信じ念仏を申さば仏になる」(『歎異抄』第12章)と思っていても、「本願を信じる」ことも「念仏を申す」ことも、自力のことばに置き換えてうけとっているということです。こちらから本願をゲットしようとし、念仏することでこちらから往生をゲットしようとしている。これでは第19願の「修諸功徳」と同じ土俵で優劣を競っているにすぎません。かくしてそしりあい、憎みあう仕儀とあいなるのです。

タグ:親鸞を読む
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