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淤泥華(おでいけ) [「『正信偈』ふたたび」その45]

(5)淤泥華(おでいけ)

最後に「この人を分陀利華と名づく」と言われます。如来の弘誓願を聞信した人は白蓮華に譬えられるのです。

これまた先の「広大勝解のひと」の場合と同じく、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほ」き凡夫が、如来の弘誓願を聞信することで、突然、清らかな白蓮華に変身するということではありません。むしろ逆です。本願に遇うことで、はじめて自分は「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほく」と言えるようになるのです。それまでは、内心そんなふうに思っても、それを大っぴらに認めることはできず、人前で言うことなど到底考えられなかったのですが、それが偽らざるほんとうの自分であると認めることができるようになります。

それまでは、いやな自分(何かにつけて腹を立て、人を見てはそねみ、ねたむ自分)に出あうたびに、こんなのはほんとうの自分ではない、何かの間違いでたまたま顔を出しただけで、ほんとうの自分はこんなふうではないとひたすら叩きにかかっていました。実際のところそんな自分しかいないのですが、それを認めることができないのです。それを認めてしまうと、自分の存在がまるごと否定されてしまうように感じられるのです。ところが本願に遇うことができますと、そんな自分のままで「ほとけのいのち」のなかに包み込まれ、そうしてはじめて、「あゝ、この自分がほんとうの自分であり、これ以外にほんとうの自分なんていない」と認めることができるようになります。

その人がプンダリーカです。

曇鸞は『論註』でこう語ります、「淤泥華(おでいけ、蓮華のこと)とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地(ろくじ)には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしゅう)の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ」と。もうこれにつけ加えるべきものは何ひとつありません。煩悩の淤泥のなかに菩提の蓮華が咲くのです。煩悩の淤泥を煩悩の淤泥と認めることの他のどこかに菩提の蓮華が咲くことはありません。煩悩の気づきと菩提の気づきはひとつです。


タグ:親鸞を読む
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