SSブログ
「信巻を読む(2)」その128 ブログトップ

自分の境遇を恨む [「信巻を読む(2)」その128]

(5)自分の境遇を恨む

阿闍世は提婆達多から自分がこの世に生まれてきたときの不吉な噂を吹き込まれます。一つは「この児はかならず父を殺す宿命にある」という占い師の予言があり、そこから未生怨(未だ生まれざるときに怨を抱くもの)という穏やかならぬ名で呼ばれていること、もう一つは母・韋提希がそれを知り、高楼の上から産み落として亡き者としようとしたこと(しかし指を一本折っただけだったことから婆羅留枝という名で呼ばれていること)です。占い師の予言の背景には、前に出てきましたように、父・頻婆娑羅が狩猟をしたとき、獲物が得られない怒りからそこにいた仙人を殺害し、仙人が復讐を誓ったという事実がありました。このような出生にまつわる縁起でもない噂から阿闍世は自分の境遇を深く恨むことになります。

ここで考えておきたいのは、阿闍世ほど劇的なものではなくとも、人は自分の生まれ落ちた境遇に対してあれこれと不満を抱くことについてです。この不満には、どうしてこんな貧しい家に生まれたのか、どうしてこんな父母から生まれたのか、どうしてこんな不細工な顔に生まれたのか、どうしてこうも頭が悪く生まれついたのか、などなど上げていけば切りがありません。自分の生まれは自分で選ぶことができないにもかかわらず、いや、そうだからこそ、あれこれと不満を持つのはどういうわけでしょう。それはもうひとえに、このいのちは「わたしのいのち」であるという思いから出てきます。そしてこの「わたしのいのち」を他の「わたしのいのち」たちと比べて「どうしてこんな」という不満が生まれるのです。

しかし「わたしのいのち」はもとから「わたしのいのち」ではありません。それはもともと誰のものでもなく「ほとけのいのち」です。「ほとけのいのち」がたまたまこの「わたしのいのち」を生きているのにすぎません。そのことに気づきますと(それが信心です)、どのような「わたしのいのち」であれ、それは「ほとけのいのち」に他なりませんから、いま「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生かせていただいていることを忝く思いこそすれ、不満を抱くことはないでしょう。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その128 ブログトップ