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『教行信証』精読2(その31) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読2(その31)]

(14)本文5

 次は山陰(慶文)の文です。

 台教(天台宗)の祖師、山陰(地名)、慶文(けいぶん)法師のいはく、「まことに仏名は真応の身(報身のこと)よりして建立せるがゆゑに、慈悲海よりして建立せるがゆゑに、誓願海よりして建立せるがゆゑに、智慧海よりして建立せるがゆゑに、法門海よりして建立せるがゆゑに、もしただもつぱら一仏の名号を称するは、すなはちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや」と。以上

 (現代語訳) 天台宗の祖師、山陰・慶文法師はいわれます、弥陀の名号は報身より建立されたのですから、大慈悲の海より建立されたのですから、誓願の海より建立されたのですから、智慧の海より建立されたのですから、真理の海より建立されたのですから、ただ弥陀の名号一つを称えるだけで、あらゆる仏の名号を称えることになり、その功徳たるや限りなく、よく罪障を滅してくれます。かならず浄土に往生できること、疑いの入る余地はありません。

 この文がどんな文脈のなかに置かれているのか分かりませんが、親鸞がこれを取り上げたのは、ただ阿弥陀仏の名号を称えることで浄土に往生することができるのはどうしてかという疑問に答えているからでしょう。なぜ弥陀の名号に特別な地位が与えられるのかというもっともな疑問です。それに対して慶文は、弥陀の名号は「真応の身よりして建立せるがゆへに、慈悲海よりして建立せるがゆへに、誓願海よりして建立せるがゆへに、智慧海よりして建立せるがゆへに、法門海よりして建立せるがゆへに」と答え、だからこの名号を称えることであらゆる仏の名号を称えることになり、かならず往生できるのだと言うのです。

タグ:親鸞を読む
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