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無我ということ [『歎異抄』ふたたび(その7)]

(7)無我ということ

 あらためて確認したいと思いますが、何ごとも「われあり」という大前提の上に成り立っています。そんなことはないだろう、われ亡きあとも世界は相変わらず存続しつづけるよ、と言われるかもしれませんが(そして実際そうに違いありませんが)、それも「われ」がいまそのようにわが亡きあとの世界を思い描いているのであり、やはり「われあり」が前提されています。われらが生きるということはすべてこの「われあり」という大前提の上に乗っかっており、どんなにひどい精神錯乱に陥ろうと、この大前提が崩れることはありません。「われ」はどこにいるのか、「われ」は誰なのかが分からなくなっても、「われ」がいまここにいることが分からなくなくことはありません。何もかも分からなくなっても「われあり」ということだけはしっかり分かっています。
 ところが仏教はその「われ」とは何かと言います。十年前も「われ」、十年後も「われ」で、いまと同じ「われ」であるというのはどういうことかと問います。十年前の「われ」といまの「われ」とでは見た目は大きく違っていますし、十年後の「われ」もまたいまの「われ」とは姿かたちだけでなく考え方だっていろいろ変わっているに違いないにもかかわらず、それでも同じ「われ」というのはどういうことかと。言うまでもないことですが、そうでないと大変なことになります。十年前の借金はもう返さなくてもよくなるなど、あらゆることがガラガラと音を立てて崩れてしまいます。このようにわれらの生活はすべて「われあり」という大前提の上に成り立っているのですが、それはただそのように仮設(仏教では「けせつ」と読みます)されているだけではないのか、というのが仏教の問いです。
 「われあり」はただそのように仮設されているだけなのに、もうそうであるのは天地がひっくり返っても確かであると思い込んでいるのではないか。そしてわれらのあらゆる苦しみはそこから生じてくるのではないか。これが釈迦の気づきです。「われあり」という思い込みは「わがもの」という思い込みとひとつですが、そこからこんなことばが生まれてきます、「(なにものかを)わがものであると執着して、動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである」(『スッタニパータ』)と。

タグ:親鸞を読む
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