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畢竟じて [「『証巻』を読む」その48]

(7)畢竟じて

これは不退転や正定聚の場合と事情は同じです。初地に至ると不退転となり正定聚の数に入ると言われますが、不退転は「このさき仏となることから退転することがない」という意味であり、正定聚は「かならず仏となるべき身となる」という意味でした。それと同じように、阿弥陀仏を見ることができれば(これは初地に至るのと同じことです)、「畢竟じて(ついにはかならず)」上地の菩薩と等しくなるということです。不退転や正定聚において、実際に仏となるのは「これから」のことですが、かならず仏になることに気づいたのは本願に遇った「いま」であるように、実際に上地の菩薩になるのは「これから」のことですが、かならず上地の菩薩になることに気づいたのは阿弥陀仏を見たてまつることができた「いま」です。

そして大事なのは「これから」ではなく「いま」です。本願に遇うことができた「いま」がすべてであり、「これから」はそれにおのずから伴うにすぎません。

先に、還相とは「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことだが、本願に遇うことができたとはいえ、ただちにそんなはたらきができるはずはなく、それを「わが願い」として持つことができるだけだと述べました(3)。実際、自在無碍に「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」ことができるのは上地の菩薩であり、それは「これから」のことでしょう。しかし本願に遇うことができた「いま」、本願を「わが願い」とすることができ(「本願の人」となることができ)、そして「わが願い」はかならず実現すると気づいたのです。なぜなら、それは如来の願いであり、われらが願うより前にすでに願われているのですから。

「生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる」のは「これから」のことであっても、それを「わが願い」とすることができるのは「いま」であり、それを「わが願い」としたことは、もうそれを成就したことに「等しい」のです。これが「阿弥陀仏を見る時、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて身等しく法等し」ということです。


タグ:親鸞を読む
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