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『浄土論』と『浄土論註』 [はじめての『高僧和讃』(その58)]

             第4回 曇鸞讃(その2)

(1)『浄土論』と『浄土論註』

 次の和讃です。

 「天親菩薩のみことをも 鸞師ときのべたまはずは 他力広大威徳の 心行いかでかさとらまし」(第31首)。
 「『論註』なくば天親の、『論』に説かれる広大な、他力の信と行ともに、どのようにしてさとらりょか」。

 前に述べましたように、親鸞にとって天親と曇鸞は一体不離です。それは天親の『浄土論』はあまりに短く切り詰められていて、それだけでは何を言わんとしているのか了解しがたく、曇鸞の『論註』の力を借りてはじめてその広大な浄土思想を汲み取ることができるということです。考えてみますと、曇鸞は龍樹の中観哲学を学び、その論理を駆使することによって、唯識思想の大成者・天親の『浄土論』を注釈しているのですから、『論註』のなかには中観と唯識そして浄土の三つが渾然一体となっていると言うことができるわけです。
 さてこの和讃で注目したいのは「他力広大威徳の心行」という文言です。この「心行」とは、『教行信証』「証巻」冒頭の「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行をうれば、すなはちのときに大乗正定聚のかずにいるなり」の「心行」と同じで、如来廻向の信と行のことです。信心も念仏も如来から回向されたものであるということ、これをはっきり教えてくれたのが曇鸞の『論註』であると言っているのです。『浄土論』を何となく読みますと、「われら」が一心に五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向)を修めることによって往生浄土をはたすことができる、と受け取れます。ところが曇鸞は『論註』において、「一心」(これが信です)も「五念門」(これが行です)もみな如来の回向であると解説してくれるのです。
 曇鸞こそ浄土の教えのなかに他力という概念を導入した人です。

タグ:親鸞を読む
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