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つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり [『教行信証』「信巻」を読む(その13)]

(3)つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり


もし本願が何か摩訶不思議な力でわれらに直接はたらきかけるのでしたら、そしてわれらがそのはたらきかけを感じること自体も本願の力によるのでしたら、ある人はそれを感じるが、ある人は感じないということは考えられません。しかし本願は「よきひと」の名号(こえ)としてわれらのもとに届けられるしかないとしますと、「よきひと」に遇えるかどうかが岐路になります。「よきひと」に遇えた人は本願のはたらきを感じることができますが(というか、ある人から本願の「こえ」が聞こえたとき、その人が「よきひと」になるということですが)、遇えなければ「本願って何だよ」ということになります。かくして「信楽を受持すること、はなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし」と言わねばならなくなるのですが、この問題はこの後すぐ取り上げられますので、そこでさらに考えつづけたいと思います(8)。


さていよいよ「信巻」の本論がはじまります。最初に親鸞が真実の信とは何かについて述べます。


つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢(ごんじょうえんね、浄土をねがい、穢土をいとう)の妙術、選択回向の直心、利他(他力)深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人(いおうむにん、往き易くして人なし)の浄信、心光照護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径(せっけい、近道)、証大涅槃の真因、極速円融の白道(善導の「二河白道の譬え」の白道)、真如一実の信海なり。この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)よりいでたり。この大願を選択本願と名づく。また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり。


最初の「つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり」の一文は、「行巻」の頭に「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」とあったのを受けています。そこで「大行あり」でとどめずに「大信あり」とつづけていましたのは、如来回向ということでは行と信も一つであると言うために違いありませんが、しかし行には行の、信には信の特質がそれぞれにありますから、行については「行巻」で、信については「信巻」で述べるということです。



タグ:親鸞を読む
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