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帰命するということ [はじめての『高僧和讃』(その35)]

(18)帰命するということ

 東京へ行きたいという願いは、東京に行けたらそれでもう用済みです。しかし浄土へ往生したいという願いは、浄土へ往生できても用済みとはならず、ますます願いつづけなければなりません。なぜなら、もう浄土へ往生できたと言っても、同時に、まだこの穢土にとどまっているからです。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)のですが、その身はまだ穢土にとどまったままです。だから願生しつづけなければなりません。
 しかしそれにしても、どうして尽十法無碍光如来に帰命したそのとき、もう安楽国に生まれたなどと言えるのでしょう。いま帰命して、のちに往生できるのではないのでしょうか。次の和讃を読んで考えたいと思います。

 「尽十方の無碍光仏 一心に帰命するをこそ 天親菩薩のみことには 願作仏心(がんさぶっしん)とのべたまへ」(第17首)。
 「世界の隅までいきわたる、ひかりのほとけに帰命する、その一心を天親は、願作仏心とのべたまう」。

 帰命とは「南無(namo)」の漢訳ですが、親鸞はこのことばの深い意味を探り、「帰命は本願招喚の勅命なり」(行巻)と教えてくれました。帰命するのがわれらであるのは間違いありませんが、それに先立って勅命が届いているということです。帰命するとは勅命に従うということですから、従うためには、その前に勅命が届いていなければなりません。「帰っておいで」の声がするから「はい、ただいま」と応答することができるのです。ジャック・デリダという哲学者は「すべての発信は受信である」と喝破しました。ぼくらが発することばはすべて、それに先立って届いていることばにたいする応答だということです。
 ここから、帰命するそのときが往生するときであることが明らかになってきます。

タグ:親鸞を読む
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