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身と土の分離 [「親鸞とともに」その43]

(4)身と土の分離

かくして、われらが生きているこの土は、実はそれそのものが阿弥陀仏であるところの世界(仏土)であるのですが、われらはその仏土からわが身を切り離し、そこからわが身に都合が良いような断片を適当に切り取り、それをわが土として所有していると言っていいのではないでしょうか。そのとき「この土は善し」、「この土は悪し」と分別して、善き土を所有しようとし、悪き土を捨てようとします。善き土が見いだせないとなると、「わが善き土はどこに」と求めて、どこまでも彷徨い歩くことになります。あのチルチルとミチルのように、青い鳥という幸せの住む土を求めて、世界の果てまで探し回るのです。その結末はといいますと、どこまで行っても見つからず、泣く泣く家に帰ってみると、何とそこに青い鳥がいたということでした。

われらは個々の「わたしのいのち」を生きていますが、それはすべてのいのちの無尽のつながりである「ほとけのいのち(無量寿)」のなかで生かされているのであり、それだけとして自立して存在しているわけではありません。ところが本願に遇うまでは、そのことに気づくことなく、すべては「わたしのいのち」あってのものだねと思い込んで(これが我執です)、世界は「わたしのいのち」のためにあると高上りしているのです。そうなりますと、周りの世界に対して何かにつけて不満を懐くことになり、心の休まるときがありません。

『無量寿経』の印象的な表現に、「田あれば田に憂へ、宅(いえ)あれば宅に憂ふ。…田なければ、また憂へて田あらんことを欲(おも)ふ。宅なければまた憂へて宅あらんことを欲ふ」とあります。もっと古い経典(『法句経』)には、釈迦のことばとして次のようなものがあります、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」と。これが、身が土から分離して浮遊しているときのありようです。


タグ:親鸞を読む
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