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生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ [『教行信証』「信巻」を読む(その41)]

(10)生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ


量深氏は「如来我となりて我を救い給ふ」をもっと短く「如来は我なり」とも言います。おそろしいようなことばですが、しかし先にも触れましたように、氏は決して「我は如来なり」とは言われません。そこに潜んでいるものは何でしょう。「如来」と「我」はひとつとはいうものの、「如来」が「我」となることによりひとつになるのであって、もとから「如来」と「我」がひとつのものとしてあるのではないということです。こう言えばいいでしょうか、「如来は我なり」と気づいたとき、はじめて「如来」は「我」とひとつになるのであり、それに気づかなければ、そもそも如来など影も形もないと。そして、それに気づかせてくれるのも「如来」であるということです。


ここまできまして頭に浮ぶのはパウロのことばです。彼は『ガラテヤ書(ガラテヤ人への手紙)』のなかでこう言っています、「我キリストとともに十字架につけられたり。もはやわれ生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり。今われ肉体にありて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨てたまひし神の子を信ずるによりて生くるなり」と。このことばも「キリスト」と「我」はひとつであることを語っています。これは「キリスト我となりて我を救い給ふ」ということであり、それを短く「キリストは我なり」と言うこともできるでしょうが、しかし決して「我はキリストなり」と言うことはできません。なぜなら「もはやわれ生くるにあらず」であるからです。もう古い「我」は死んでしまい、キリストに生かされた新しい「我」が生まれているのです。


至心回向に戻りますと、「我」が至心に回向して「如来」とひとつになろうとする(往生しようとする)のではありません、「如来」が至心に回向して、もうすでに「如来」と「我」はひとつである(すでに往生している)ことに気づかせようとはからっているのです。ですから、それに気づきさえすれば「みな往くことを得しむ」ことになります。いや、誤解を恐れることなく、もうひとつ踏み込んでいえば、「みなすでに往生を得ている」のです。


(第4回 完)



タグ:親鸞を読む
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