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抑止ということ [「信巻を読む(2)」その143]

(9)抑止ということ

善導の解法は明快です。第十八願に「ただ五逆と誹謗正法を除く」とあるのは、それらの罪の重きを示して抑止するためであるというのです。文字通りに五逆と謗法を摂取から除外するということではなく、たとえ五逆や謗法の罪を犯しても、それを慚愧すればみな摂取してくださるということです。では『観経』下品下生において「五逆を取りて謗法を除く」とされるのはどういうわけかというと、五逆は「すでに作れ」るのに対して、謗法は「いまだ為(つく)らざ」るからだと言います。下品下生の悪人はすでに五逆の罪を犯しているから、これを摂取するが、まだ謗法の罪は犯していないから、これを為さざるよう抑止しているのだということです。

親鸞はこの善導の解法を受けとめ『尊号真像銘文』においてこう言っています、「唯除は、ただのぞくといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせむとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生、みなもれず往生すべしとしらせむとなり」と。さてしかし「みなもれず往生すべしとしらせむ」とするのならば、どうして「五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせむ」必要があるのだろうと思います。『歎異抄』第1章には「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」とあります。第3章ではさらに「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という衝撃的なことばがあります。ならばなぜ「ただ五逆と誹謗正法を除く」と言わなければならないのか。

ここで頭に浮ぶのが「造悪無碍」(あるいは「本願ぼこり」)です。本願は「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがため」にあるのだから、もうどんなことをしようが心配することはない、世の善悪などに縛られずに自由に生きればいいのだという考えで、法然の教えを喜んで迎えた人たちのなかに、こんなふうに考える人が出てきたのです。さてこの考えのどこに問題が潜んでいるのか、善導のもう一つの文を読むなかで思いを廻らせたいと思います。


タグ:親鸞を読む
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