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念仏のひとをまもるなり [『浄土和讃』を読む(その180)]

(13)念仏のひとをまもるなり

 梵天とはブラフマンで、帝釈天はインドラというように、ここに出てくる神々はみなインド古来の神々です。仏教はバラモン教の神々を排除することなく、仏教の守護神として取り込みましたが、その伝統が親鸞浄土教の中でも脈々と生きていて、天神・地祇を排除するどころか、念仏のひとを護ってくれる存在としてとても大事にされます。そういえば、『教行信証』をはじめて読んだとき、「化身土巻」の後半に密教的色彩の濃い『大集経(だいじっきょう)』から膨大な引用があり、神々の話が延々と続くのがどうにもピンとこなかったことを思い出します。
 この「現世利益和讃」においても、梵天・帝釈天をはじめとして他化自在天に至るまで多くの神々を丁寧に取り上げ、「天神・地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏のひとをまもるなり」とまとめています。これは浄土教の他の諸師と比べて、親鸞浄土教のひとつの特徴と言えるのではないでしょうか。他の諸師は、諸仏によって念仏の人が護られているとは言っても、神々のことに言及するのは少ないのではないかと思うのです。ここには何かがあるような気がします。
 ことは他力ということに関わります。
 「他力といふは、如来の本願力なり」(「行巻」)で、われらの往生(救い)はもっぱら本願力によるというのが他力の本来の意味ですが、親鸞にとって他力の範囲は往生を核としながらも、はるかに広いのではないかということです。彼は生きることの隅々にまで他力を感じていたのではないか。われらの一挙手一投足にまで目に見えない力が働いているという感覚です。それが世界に満ち満ちておわす神々によって、われらが護られているという思想に結びついているのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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