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本願海と群生海 [『教行信証』精読2(その156)]

(4)本願海と群生海

 弥陀の本願が海に譬えられるように、われら群生の世界も海と言われます。本願海と群生海です。しかし二つの海があるわけではないでしょう。本願海が無量であることは言うまでもありませんが、群生海も無量です。個々のいのちは有量であっても、いのちの総体としての群生海は無量です。としますと、こちらに群生海があり、あちらに本願海があるということにはならず(無量が二つあることはできません)、群生海がそのまま本願海であるとしか考えることができません。われらは群生海にいるがままで、もうすでに本願海にいるのです。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」であるということです。本願はそのことに気づかせてくれる。
 しかし、ここで大きな疑問に突き当たります。先ほどこう言ったばかりです、本願はむこうからやってくると。そして本願とは「ほとけのいのち」がそれぞれの「わたしのいのち」を分け隔てなく生かしめたいと願う、その願いであると。としますと、「ほとけのいのち」はそれぞれの「わたしのいのち」のむこうにあるということではないでしょうか。「わたしのいのち」はそのままで「ほとけのいのち」でありながら、しかし「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」のむこうにあって、その本願を届けてくる。さて、むこうにある(超越的である)が、こちらにある(内在的である)という、この事態をどう呑み込むことができるでしょう。
 こんなイメージを浮かんできます。ステージの真ん中にスポットライトがあたり、そこにわたしがいます。あるいは密雲がびっしり空を覆い、あたりは暗い中で、一点雲の割れ目があり、そこから日の光が差しこんで丸い陽だまりをつくっています。そこにわたしがいる。スポットライトの当たっているところ、日光が陽だまりをつくっているところが「わたしのいのち」で、まわりに広がる無限の暗がりが「ほとけのいのち」です。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のただ中にぽっかり浮かびあがっています。このイメージで、「ほとけのいのち」は明らかに「わたしのいのち」の外にあります(超越的です)が、同時に「ほとけのいのち」は「わたしのいのち」の中にある(内在的である)と言うことはできないでしょうか。「わたしのいのち」とはいうものの、実は「ほとけのいのち」に他ならないのですから。

タグ:親鸞を読む
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