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世をいとふしるし [はじめての『高僧和讃』(その194)]

(22)世をいとふしるし

 念仏とは本願名号に救われたことを喜ぶということですから、そこから社会生活についての規範がでてくることはありません。がしかし、だからといって両者の間に何のつながりもないわけではありません。他力と自力の位相が異なるとはいえ、ひとりの人間のなかでのことですから、つながっているのは当然のことです。直接結びつくことはないが、でもつながっているということですが、さて、いかに。
 まず結論を述べます。本願名号に救われたことは日常生活のなかに否応なくにじみ出てくるということです。それを親鸞は「しるし」ということばで表しています。たとえば『末燈鈔』第19通に「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにてさふらはめとこそおぼえさふらふ」とあります。
 この手紙は明法房(みょうほうぼう)が亡くなったことから書き起こされています。明法房といいますのは、もとは山伏で、念仏が広まるのを憎み親鸞を殺そうと山の中で待ちかまえていたのですが、思いを果たせず、ついに草庵を襲おうとしたものの、親鸞に会うとたちまち感化され、その場で弟子になったという因縁の人物です。「もとあしかりしわがこころをおもひかへして」とはそのことを言っています。またこの手紙のなかで、当時みられた本願ぼこりを取り上げ、「われ往生すべければとて、すまじきことをもし、おもふまじきことをもおもひ、いふまじきことをもいひなどすることはあるべくもさふらはず」と述べています。こういうふるまいには「念仏して往生ねがふしるし」が見られないと言っているのです。
 「あゝ、本願念仏に救われた、ありがたい」という思いは、おのずから日々のふるまいのなかににじみ出るものだというのです。もう一つ上げておきましょう。同じく『末燈鈔』第20通です。「仏の御名をもきき、念仏をもまふして、ひさしくなりておはしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとふしるし、この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしもさふらふべしとこそおぼえさふらへ」。「仏の御名をもきき、念仏をもまうす」ひとは、おのずから「この身のあしきことをばいとひすて」ようという気持ちになるものだということです。

タグ:親鸞を読む
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