SSブログ
『ふりむけば他力』(その60) ブログトップ

偶然と必然 [『ふりむけば他力』(その60)]

(11)偶然と必然

 このように見てきますと、彼が罪を犯したことが偶然か必然かの決着をつけることは不可能であるということです。「それは偶然である」と言えば、すかさず「いや必然である」という反論が起り、「それは必然である」と言えば、すかさず「いや偶然である」という反論があります。偶然のなかに必然があり、必然のなかに偶然があるとしか言いようがありません。お気づきでしょうか、第4章で宿縁について、それは偶然であるとともに必然であると述べました。『教行信証』「序」の「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」ということばは、本願に遇うのは「たまたま」であることをあらわしていますが、その一方で、本願に遇ってみますと、もうとうの昔からそのなかにあったと感じるということです。宿縁は偶然でありつつ同時に必然であるということです。
 罪を犯す宿業が偶然でありつつ同時に必然であることと、本願に遇う宿縁も偶然でありつつ同時に必然であるということ、これは宿業も宿縁も縁起であることにおいてひとつだということを意味しますが、そのことをあらためて確認しておきましょう。まずは偶然性から。罪を犯すこともできたし、犯さないこともできたが、罪を犯すことを選んだという意味の偶然性と、本願に「たまたま」遇うことができたという意味の偶然性は同じでしょうか。一見したところ、前者は「どちらを選ぶこともできる」ということであるのに対して、後者は「こちらから選ぶというよりも、むしろむこうから選ばれた」ということですから、別のことのように思えます。
 しかしそれを裏返してみますと、前者が「どちらを選ぶこともできる」というのは、どちらもその可能性があるということにすぎず、実際には、われらが選んだというよりも「むこうから」選ばれたということではないかと思えてきます。だからこそ、罪を犯すことを選んでしまうと、それはもうそうなるしかなかったと、その必然性が感じられるのです。それは本願に遇ってしまうと、もうずっと前から本願のなかにあったのであり、これまでそれに気づいていなかっただけであるのと同じことです。このように宿業も宿縁も「たまたま」起りますが(偶然ですが)、しかし同時に「そうなるべくして」起る(必然である)ということができます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その60) ブログトップ