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とても地獄は一定すみかぞかし [「親鸞とともに」その54]

(7)とても地獄は一定すみかぞかし

「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」ということばの背景には、性的な悩みを抱えておしつぶされそうになっている親鸞の苦しみがあったのに違いありません。そしてこの「とても地獄は一定すみかぞかし」という自覚があったからこそ、それが反転して「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じる」(『歎異抄』第1章)ことになったのに違いありません。ここに善導の「二種深信」が鮮やかな形であらわれています。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づき(機の深信)があったればこそ、「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」という気づき(法の深信)があるということです。

機の深信と法の深信は一体不離であるということ、ここに「煩悩を断ぜずして涅槃を得」(正信偈)と言われることの真意があります。

「生死即涅槃」や「煩悩即菩提」に大乗仏教のエッセンスがあると言われますが、そして「不断煩悩得涅槃」ということばも同趣旨ですが、このようなことがほんとうの意味で言えるのは、それが「二種深信」としてあるからであるということ、もしこの真実の信心とは関係のないところで「生死即涅槃」とか「煩悩即菩提」と言われても、それはただの観念論にすぎないということです。それに、そもそもこれらの言明は矛盾そのものであると言わなければなりません。生死の迷いから離脱することが涅槃であり、煩悩の苦しみから解脱することが菩提ですから、生死の迷いがそのままで涅槃であり、煩悩の苦しみがそのままで菩提であるというのは、まったき矛盾です。

もし誰かが「わたしは生死の迷い(煩悩の苦しみ)の真っただ中にいます、しかしわたしは同時に涅槃(菩提)の中に入っています」と言えば、それは矛盾そのものとしてレッドカードを上げられ、退場を命じられます。このまったき矛盾が矛盾でなくなるのは、それが二種深信としてあるからです。だからこそ「正信偈」の「煩悩を断ぜずして涅槃を得」の前に「よく一念喜愛の心(真実の信心)を発すれば」と言われているのです。しかし真実の信心としてあるならば、それが矛盾ではなくなるのでしょうか。そこにはどんなからくりがあるのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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